こんな街「八街市」


地名の由来 本市の中でも古い歴史を持つ旧川上地区と文違、榎戸、大関は天正19年(1591)の徳川検地(徳川家康江戸入府の翌年)の時には、すでに村として確立されていたものと推定されていますが本市の多くは、江戸時代には佐倉七牧とよばれ幕府の野馬の放牧地でした。
 明治初年、新政府は救民対策事業として幕府の放牧地であった小金、佐倉両牧の開墾を決めました。佐倉牧の部分であった柳沢牧、小金牧、佐倉牧の開墾が始められてから8番目に行われたので「八街」の地名が明治5年11月2日につけられました。
人口 八街市は首都圏の拡大によって昭和62年から毎年約2,000人以上人口が増加し、特に平成元年からは”約3000人”の増加が続いています。平成14年6月現在76,975人となっています。
市制施行 平成2年10月の国勢調査で人口が5万人を越え、平成4年4月に、千葉県下30番目の市となりました。
今後の展望 本市は、農業を中心とした市として、生鮮野菜を主軸に首都圏への主要食糧供給地として、また首都圏のベッドタウンとして宅地開発が進められており、北総台地における緑に映える中核的都市としてさらに発展しようとしています。

八街市の産業

★大地の豊かな恵
「国内で生産される農産物なら、何でもOK!」といってもいいほど肥沃な大地に恵まれた土地柄−−それが私たちのふるさと八街市です。
 特産の落花生、スイカの産地で全国的に知られ、その 豊富な農産物を利用した加工業も盛んで、千葉の観光みやげ品として、重要な地位を占めています。
★商業都市 ★産業都市
むかし八街は、北総地帯の農産物流基地であり、それに伴う「商都」でもありました。
 その伝統は 今日でも脈々と生き続けており、いま都市の近代化に歩調を合わせ、新しい時代の「八街商圏づくり」が 始まったところです。
 その一つは、JR八街駅周辺のリフレッシュ作戦によるショッピングゾーン計画。もう一つは、すでに幹線道路沿いに進出し、休日となるとマイカーファミリーで賑わう郊外型ショッ ピングゾーン。そこには、近隣都市からやってくる家族連れの姿もふえています。
 近い将来、中心街 と合わせ魅力いっぱいの「八街商圏」が築かれることでしょう。
緑と太陽の豊かな自然が息ずくまち−そんなイメージに象徴されるように、ふるさと八街の産業は これまで農業が中心でした。しかし近年、その恵まれた居住環境を求めてニュータウンが誕生、人々は澄 んだ空気、土や緑とふれあう”カントリーライフ”を満喫しています。
 いま八街の、まちづくりの メインテーマは「ヒューマンフィールド」を農・工・商バランスのとれた 自立都市をめざして、確かな歩みを続けていきます。
★産業まつりと土曜市
農業と都市住宅とのふれあいの場が「産業まつり」や「土曜市」。泥つきのフレッシュ野菜が、マイ カーで駆けつけた家族連れなどに買い取られ、夕食を飾る。
★日本一落花生の里八街市
明治9年千葉県に導入された落花生は大正に入ると急速に普及し、現在千葉県が品質・生産量共に 全国一です。
 なかでも八街市は周辺の土壌が落花生の育成に最適と言われ、品種の改良・加工方法の 改善とあいまっていまや八街の落花生は全国一と賞賛されています。
★落花生豆知識
 落花生は明治以降に我が国に導入された作物でおやつにおつまみに、そして料理にと幅広く親しまれて います。呼び名にはいろいろあり、花が咲き終わると地下に向かって子房柄が伸びていくところから、落花生、中国から渡来したしたので南京豆、唐人豆、英語でピーナッツといいます。
栽培は開墾畑の広い八街、富里その 周辺の地域の気候、風土がもっとも適しているところから生産及び風味が日本一を誇る所以です。一般に大粒種 はいり豆、いりざや、バターピーナッツとして消費され、小粒種は製菓原料としての利用が主です。 調理 加工には落花生豆腐、落花生あえ、落花生味噌、ピーナツクリーム、ピーナツバター、落花生せんべい、ピーナツ飴などがあります。 今落花生は自然食品として又健康食品として高く評価され愛されています。 

史跡・名所

1.春はカタクリ、夏はホタル舞う日枝神社(砂地区)
市南部の砂地区本郷には、小高い山の中腹に「台己貴の命」を奉った「日枝神社」があります。記録では、天正19年(1591)創建で、境内には八街市指定の天然記念物”カタクリ”が群生していて春には薄紫色の淡い花が楽しめます。
 また、暑い夏の夕暮れになりますと神社周辺ではホタルが飛び交い幻想的な光景にひたることができます。
2.獅子舞で疫病退散”榎戸の大宮神社”(榎戸地区)
寛文元年(1661)の創建で、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)堂内に奉納されている獅子舞の獅子は、昔村から疫病を退散させるために、各戸を巡回した時のもの。獅子舞は、昭和54年に町の無形文化財に指定されました。神社では、毎年10月18日〜21日に祭礼が行われます。
3.息子の身代わりに死んだ白狐”烏森稲荷神社”(山田台地区)
明治10年に、山田台にある前川清一郎宅のため池で、白狐が溺れ死に同刻、折しも西南の役に海軍陸戦隊として参加していた長男元次郎が、谷川で敵の狙撃を受けた。幸い無傷で難を逃れたが、これを知った父清一郎は、白狐が息子の身代わりに命を落としたものと信じ、その霊に報いようと、翌年3月東京新橋の烏森稲荷から分霊勧請を受けて、墓の近くに祠を設けました。これが稲荷神社発祥の由来で、祭神は蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)です。現在も社域の一隅には、白狐を祀った小祠があります。
4.文違麦つき唄・麦つき踊り
明治の初め、八街の開墾で入植した人々の主食は麦でした。1年分の麦を精白する作業は、10キログラム以上もある重い杵と臼を使うため、当時の農民にとって苦しい仕事の一つでした。
この苦労から生まれたのが「麦つき唄・麦つき踊り」です。文違では明治20年頃から、先祖の供養と農民の楽しみを兼ね盆休みにこの「麦つき唄・麦つき踊り」が行われており、昭和54年4月1日には町指定無形民族文化財に指定されました。最近は、市民体育祭の昼食時間に文違麦つき踊り保存会の人たちにより披露されています。


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